「陰翳礼讃」(いんえいらいさん)谷崎潤一郎 著
「ねじ式」(ねじしき)つげ義春 著
二つの著作に共通する「陰影」について、思うところを書いてみました。
陰翳礼讃
いや〜暑い、暑すぎる6月末から続く猛暑。
最近の気候は、ずいぶんハッキリしていますよね。
暑い!寒い!豪雨!
何やら今の世の中と似ているような、、一かゼロか!善か悪か!賛成か反対か!どっちなんだい!
最近思うのです。白か黒かどちらか決めないと収まらない風潮、ありませんか?
思うに、白でも黒でもない「陰影のグラデーション」のような感じがあっても良いのでは。と。
昨年から撮りためていた写真です。真夏のアスファルトに映った木の枝、葉、電線の影が何かの前衛芸術?ジャクソンポロック?的な雰囲気に見えたのでしょう。
「谷崎潤一郎」の「陰翳礼讃」という随筆。この本に書かれている陰影の記述がすごくしっくりきたこと。
「つげ義春」の「ねじ式」という漫画の影の表現が、私の「陰影」イメージとぴったり合うこと。
この両作品について、いつか書いてみたいと温めておりました。ぜひ最後までおつきあいください。
まずは陰翳礼讃から。
世の中、ずいぶん世知辛い。
冒頭に書いた、「白か黒か、どっち?」の世の中になっているように感じます。
「はい論破!あなたは間違っている。」
「その差別的な発言、ヘイトスピーチに該当。」
「絶対あの店のラーメン食べる人は味覚が変!」
、、たしかに正しいのだけれども、、全否定は、やり過ぎじゃないかなぁ。笑いもないし。。
とにかく激しいネットやテレビの論調を見ていると、どちらかに所属していないといけないような気になってくるから、不思議ですよね。
あえて2択にして選択肢を狭める。心理学の専門用語で「二分法の誤謬」と言うテクニックもあるようです。
どっちでも良い時に、選択肢を広げたいときに、「陰翳礼讃」お薦めです。
陰翳礼讃
陰翳礼讃(いんえいらいさん) 谷崎潤一郎著
まだ電灯がなかった時代の今日と違った日本の美の感覚、生活と自然とが一体化し、真に風雅(ふうが)の神髄を知っていた日本人の芸術的な感性について論じたもの。
1933年から34年にかけて雑誌「経済往来」に連載。
引用元:Wikipedia
陰翳の移ろう美しさ、これが日常の中に深く関わっている日本人の感性を、礼讃しています。
今ある現実をそのまま受け入れる感覚。
正しいとか間違っているとか、よりも。
味わい、美しさが良いことと、社会や人々も認めていたのです。
漆器について、こんな記述があります。
われわれは一概に光るものが嫌いと言う訳ではないが、浅く冴えたものよりも、沈んだ翳りのあるものを好む。
〜中略〜
尤(もっと)も時代のつやなどと云うとよく聞こえるが、実を云えば手垢の光りである。
〜中略〜
西洋人は垢を根こそぎ発(あば)き立てて取り除こうとするのに反し、東洋人はそれを大切に保存して、そのまま美化する。と、まあ負け惜しみを云えば云うところだが、
出典:陰翳礼讃 谷崎潤一郎著 新潮文庫
長年使い込んだ、お椀の手垢の跡にすら、愛着を持って大切に使い続ける。
清潔にすることは現代の日本では、最優先されているように見えます。
これを西洋化と呼ぶのは大げさですが、使い捨て文化と申しましょうか、元来物を大切に使い続ける国民性だったのでは?と思います。
手垢は不潔なもので、きれいにする事は当たり前。
ピカピカのまっ白い皿が素敵でしょう!
“ヤマザキ春のパン祭り”が、そうやって誕生したとかしなかったとか。
今は物も充分にあるのに!古い食器って無理!という主張は決して間違いではありません。
一方、現代でも古き良き品々を大切に、長く使い続ける人々も、もちろんいますが、意識して生活し続けなければならない人も中にはいるのでは?と思っています。
(○○ライフ、○○生活的なライフスタイル縛り)
声の大きい人やフォロワーの多い人々の発言が、「きったない古い食器とか無理〜」だとすると注目もされます。”いいね”もいっぱいつきます。
この声は、一見正しく、多数の意見に思えます。
一方で、日本の言葉に「なれ」という言葉があり、人が触ってるうちに自然についた「つや」を表します。
知っていれば、ピカピカの白い皿以外にも良い器があると感じることが出来ますし、その器を受け入れる事が自然に出来ると思うのです。ライフスタイル縛りをせずとも。
多数の意見にも一定の疑問を持つことも出来ます。
色々なツールを駆使して、個人が気軽に情報を発信出来る現代だからこそ、余計に情報の「見極め」と自分なりの「解釈」が大切な事だと言えましょう。
漆器と陰影の関係について
陰影礼讃には、次の記述もあります。
古(いにし)えの工芸家がそれらの器に漆を塗り、蒔絵(まきえ)を画く時は、必ずそう云う暗い部屋を頭に置き、乏しい光りの中における効果を狙ったのに違いなく、金色を贅沢に使ったりしたのも、それが闇に浮かび出る工合や、燈火を反射する加減を考慮したものと察せられる。
出典:陰翳礼讃 谷崎潤一郎著 新潮文庫
京都国立博物館蔵の超豪華な漆器です。きらびやかな蒔絵がびっしりと施されています。重要文化財。
花鳥蒔絵螺鈿角徳利
京都国立博物館蔵の螺鈿を施した漆器と徳利です。17世紀の作とされ、黒漆地に金平蒔絵(きんひらまきえ)で南蛮唐草の縁取りが施され、その中に絵梨地(えなしじ)と螺鈿(らでん)も併用してさまざまな花鳥図がすきまなく描かれている。
出典:花鳥蒔絵螺鈿角徳利 京都国立博物館
古い蒔絵の箱など、博物館で見たことはあるのですが、正直キラキラ、ケバケバ、きっと当時のお殿様とか一部の貴族の悪趣味?くらいに思っていました。
しかし、陰翳礼讃を読んで、絢爛豪華(けんらんごうか)な装飾の意味がわかりました。
昔は電灯などないし、夜はロウソクか月明かりのみ。日が暮れると真っ暗だったのです。
その月明りで最大の美しさを発揮する設計となっていたのですね。
薄暗い中でこそ、美しさの真価が発揮される。
現代の、いつどこに行っても明るくまぶしい照明のもとでは、考えもつかなかった事ですよね。
真価が発揮される場所や時間は人それぞれ。
“型”にはめてしまうと、それぞれの個性も見えなくなってしまいます。
陰影のグラデーションとデジタル化
きれい、きたない、正しい、間違い、
その環境によって、見え方、考え方が全く変わるということを、谷崎の洞察から気付かされます。
昨今の白か黒かの激しい論調に対しても、少しでも寛容であったり、環境が違う世界への想像力を持っていたいと痛感しました。
白か黒か、1か0か、これはデジタル化に他なりませんね。現代のコンピュータ、情報の伝達は全て1と0で表す事ができます。
グラデーションの無い世界。アナログ情報の、0から0.9は全て0でいいやろ!的な丸め方。
こうしないと現代の情報化社会がまわっていかないのも現実です。
陰影のグラデーション。
アナログのまま、無限のグラデーションのままで良いものもあるかと。
賛成、反対の中間くらいも、できれば許容してほしいですよね。限りなく反対に近い中立とか。
悩みやストレスで、もうパンパンと感じたら、自分を1か0かに押し込めようとしているのかも?
いいじゃないですか、1.3とか0.7で。
見方を変えよう!悩んでるヒマがあったら。
話は飛びますが、心理学者のアドラーは悩みの元は100%対人関係と言っています。
友人、夫婦、親子、上司と部下、フォロワーなど様々なところに悩みはつきません。
私も日々何らかの悩みや考えこんだり、を抱えて生きています。そのほとんどが対人関係ですかね。
ズボンのほつれや道路の渋滞で、一日中悩むことはないですよね。
さて対人関係ですが、相手がこちらの思うように変わってくれることは、決してありません。
例えば社内一の美人さんが、突然あなたに結婚を申し込んできたりとか、ありませんから。あったとしても、あなたが石油王的な大富豪の場合に限られます。
色々腹が立ったり、悲しんだり、相手の嫌な事ばかりを考えていることがあります。
イジメっ子や、嫌な書き込み、苦手なママ友の事など。。色々ありますよね。
それは相手の問題。決してあなた自身の問題ではない。
とアドラーは言っています。
悩んでも仕方のない事と。
ここで見方を変えて、限られた時間の使い方が人にたいする恨み言や、こうしてマウント取ってやろう、とかの考えに囚われていては時間を浪費するばかり。
悩んでいる時間は、あなたの時間ではなく、相手に囚われた時間。もったいない!! その時間は別のこと、例えば本を読んで物思いにふけったり、犬の散歩したり。
見方を変えて、あなたにとって有意義な時間にしませんか?
過去と他人は変えられないが、未来と自分は変えられる。
(by 出来の良い後輩が、引用した誰かの名言)
つまりコントロール出来るのは、せいぜい自分だけ。それすら実際には制御は難しい。
例えば、暑い夏にクーラーかけてビール飲みながらダラダラとしてたら、あれ?もう相撲始まってんじゃん。そのうち笑点やらサザエさんもはじまり、急に心細くなり、、またビール。そのうち寝てしまい、、
と制御不能になる日曜日はよくあること。
出来れば薄明かりの部屋で、障子に映る木の枝などを揺れるがままにぼんやり眺めて、贅沢な制御不能を味わいたいものです。
色々な事を頭の中でグルグルとシミュレーションしたところで、月曜日が急に素晴らしい日になることはありません、何も変わりません。
変わるとしたら、自分の物事への考え方、見方なのではないでしょうか。
例えば、日曜日のサザエさん見るのをお休みして、近所の夏の夕方を散歩してみるとか。
あまり良いアイデアが出ずスミマセン。でも、ちょっとした変化を試してみるのも、新たな発見に繋がる事が往々にしてあるものです。
時間は淡々と、全人類平等に過ぎていきます。
その間も、陰影はうつろい、夜明けとともに消えていきます。儚いものです。
ねじ式
たまたま泳ぎにきた海岸で、突然メメくらげに刺され、知らない町で医者を探してさまよう事に、、
ねじ式の冒頭シーンから。
ねじ式(ねじ式) つげ義春著
1968年6月10日に刊行された「月刊漫画ガロ」6月増刊号「つげ義春特集」にて掲載された、つげ義春による2色印刷の漫画作品。千葉県の太海(ふとみ)を旅行した経験が元になっているが、作風は前衛的でシュールである。
短編の多いつげ義春の作品の中でも特に有名で、つげを代表する作品として作品集の表題作ともなっている。
日本の漫画界だけにとどまらず、多くの分野に多大な影響を与えた。
引用元:Wikipedia
引用にもありますが、つげ義春の代表作です。他にも映画になった「無能の人」など聞いた事ある方も多いのではないでしょうか。
まず題名にインパクトがありますね、ねじ式?どういう意味?
一説には、つげ自身の夢をマンガ化したとの話もあります。
私がインパクトを受けたのは、シュールなセリフと強烈な絵です。
この強烈な絵、真っ黒な影のような機関車。
一コマ一コマ、陰影の強烈さと現実にいるのか夢の中なのか、歪んだ世界にスッポリとハマったような感覚。
こんなマンガが世の中にあるんだ!と当時は本当に驚いたものです。
(当時読んでいたのは松本零士、大友克洋、秋元治など)
田舎の町中を汽車が走るシーンなんて、つげしか描けない!このシーンの陰影も画面にインパクトを与えていますね。
この作品から影響を受け、他のつげ作品はもとより、掲載された月刊漫画誌ガロを定期購読し、しまいにはガロに下手な漫画を投稿するまでになっていました。(もちろんボツですが)
ねじ式のインパクトはいまだに頭に焼き付いています。唯一無二の世界観をもった傑作だと思います。
ねじ式の影と既視感
陰影礼讃とねじ式は、陰影というテーマで似ているようにも見えます。
しかし、同じ陰影でも表現が違っています。
うつろう影、静かなイメージが陰翳礼讃だとすると、ねじ式は、ドーンと目の前に迫ってくる影。
ねじ式に出てくる謎めいた町の陰影は、実際に見たような気がします。
それが実家のある宮崎なのか、爺ちゃんの家があった美々津(みみつ)の町なのかはわかりません。
恐らく、ねじ式を読んだ多くの同世代の人に、この既視感、懐かしさがあると私は想像しています。
ねじ式的な風景を探しているんですが、、まだ見つかっていないのです。
探すな!見つけるのだ
以前訪れた箱根彫刻の森美術館で見たピカソコーナーにあったピカソの名言。
探すな!見つけるのだ。
探しているうちは、見つからないもの。
そのうち見つける事が出来ると信じています!ねじ式の中で町中を汽車が走っていたような陰影に満ちた住宅地。
陰影繋がりで、他には「デ・キリコ」も好きな作家です。
影にインパクトがあり、謎めき、寂しさがにじみ出ています。
シュールな世界観が、ねじ式と似ていませんか?
まとめ
昨今は、コロナ感染症のパンデミック、ロシアのウクライナ侵攻による世界的な戦争モード突入への不安、気候変動など、現実が十分にシュールな世界へと向かっているような時代ではないでしょうか。
現実世界が十分シュールなので、逆にシュールな芸術作品は現れず、メッセージ色の強い作品、例えばバンクシーなどが全面に出てくる時代なのですかね。
ねじ式、今の若い人たちにも響くといいのですが。
最近のヒット作、例えば鬼滅の刃。凄く良かったです。進撃の巨人も。
しかし、「ねじ式」のように理不尽な、良い意味でわけのわからない内容の作品が持つ力。記憶に残り続ける作品を、この先も読みたいのであります。
現実世界がシュールになりつつあり、白黒はっきりしないと生きづらいのですが、陰影礼讃やねじ式のように、曖昧さの中に豊かさを見つけられるよう、色んな本、絵画、音楽、景色、人との遭遇?を楽しみに、還暦になってもまだまだ突き進みたいと思います。
よかったら、ぜひ読んでみて下さい!
ありがとうございました。